一昨日女川町の小学校の卒業式が行われた。
三つの学校が統合され、新しくなった小学校の第一回目の卒業生64人が元気に学び舎から巣立っていった。
子供たちは地域の大事な大事な宝物であり、郷土の未来を担うのは疑いもなくこの子供たちなのである。
小学校の6年間は人間の進化の中でも最も顕著にその成長が表れる時期であり、幼児から児童にそして少年、少女になって行く、まさしくその後の人生の礎を形成する時期なのである。
将来の夢はサッカー選手、プロ野球選手、看護師、介護士、パティシエ、ゲームクリエーター等様々であるが、多くの子供たちが”人の役にたちたい、周りから感謝される仕事をしたい”と言っていることは、筆舌に尽くしがたい過酷な体験を強いられながら全国、全世界から支援されて現在がある被災地の子供たち特有の意識だろうか。
先頃、池上正樹、加藤順子の”あのとき大川小学校で何が起きたのか”を読んだ。
今、日本人で大川小学校と言う固有名詞を知らない人はいないだろう。
2万人を超す犠牲者を出した東日本大震災の中でも最大最悪の悲劇がこの大川小学校の児童達だろう。
女川町は人口1万人の中で827人の犠牲者をだし、家、工場、店舗などの7割以上が壊滅した被災地の中でも最悪の大被害を受けたが、小、中学生の犠牲者は600人中4人であり、学校の敷地内では犠牲者はない。
この重い事実は単なる偶然ではない。本町の小、中学校は有能な教育長の下で普段から地震津波等災害時の避難マニュアルが確立し定期的に真剣な避難訓練が行われていたのである。
加えて混乱し狼狽する保護者達に”高台にある学校は安全であるから”と全ての子供たちを敷地内に留まらせた教育長の緊急時の的確な判断は歴史に残る功績であり大称賛に値する。
それに比し大川小学校はいくつもの不運が重なり大参事に繋がった。
当時、石巻市には学校を管理する教育委員会の教育長が長期に不在であったし、大川小学校の責任者である校長がその日不在であったことが大きい。
私も最大の被災地の被災者の一人として1000年に一度の未曽有の想定外の大災害であるから大川小学校の悲劇は
止むを得ないのではないかと当初は考えた。
これだけの自然災害だから誰も責められない、自然の猛威には誰も逆らえないのではと考えた。
しかし、大川小学校の悲劇は絶対安全、安心な場である学校管理下で起きた悲劇なのである。
子ども達が校庭で整列、避難する中で先生に”高い山へ逃げよう”と進言しながら聞き入れられなかったこと。
何人かは実際、山に向かって走り出しながら山は倒木が危険だからと戻されたこと。
先生方は地震発生から大津波襲来まで50分の長い時間がありながら、小田原評定を繰り返し、大津波襲来のわずか1分前に津波に向かって走り出す最悪の愚策を決定したこと。
地域住民の半数が犠牲になる大参事であるが保護者が迎えにきて帰った子ども達の多くが生き残ったことを考えると、間違った最悪の判断をした学校、教育委員会の責任は免れないのではないかと考える。
山に逃げようと進言した子供たちは絶対管理者である先生方の指示に従うしか術がないのであるから、先生方の判断は大事であり大きな責任が伴うのである。
本町の教育長の的確なる判断は50年前のチリ地震津波の経験を教訓としたものであり、普段からの訓練の賜物であろう。
50年前のチリ地震津波でも被害のなかった大川小周辺はその準備、心構えに少しだけ油断があったのかもしれない。
自然の営みは人知をはるかに超えるものであり、自然の力に逆らえる術を人間は持たない。
しかし自然に寄り添いながら自然と共生する知恵を磨いて行くのが人間の進歩なのである。
大川小学校で亡くなった人々をはじめ全ての犠牲者のご冥福を心からお祈りいたします。



スポンサーサイト
Secret

TrackBackURL
→http://sunparksan.blog123.fc2.com/tb.php/115-77a85531