今、台風11号が兵庫県に再上陸したとの報道があった。 今日の午後には東北地方に接近するので要警戒との事。
昨今の日本列島は台風、土砂崩れ等自然災害が多発し、その都度「想定外の事」、「今まで経験したことのない事」の言葉を聞く。 地球が活動期に入っていることと、人間たちの勝手な振る舞いに対する自然からの警鐘だろうか。
東日本大震災の大津波を直接体験した者の教訓は1、自然の力は無限であり過去の経験則にだけ頼らない。        2、普段から避難訓練をすること。地震が来たら即高台に逃げる、そして戻らない。                        3、非常時の情報手段を確保する、非常食は分散して置く。                                      4、自助、共助で3日間、72時間頑張れば必ず公助の救援隊が来る。
 5、我が国は非常時混乱時でも大半の人が規則を守り、回りへの思いやりを持つことが出来る優しい民族である。
の5点である。
昨日女川湾戦没者慰霊祭に参列してきた。と言うより私が主催者として呼びかけ開催したと言う方が正解だろうか。
これは今から69年前の昭和20年8月9日、10日の両日、女川湾に停泊していた軍用艦天草、大浜等の艦船がアメリカを中心とした連合国側の激しい爆撃により200名を超す命が失われたのです。
終戦のわずか5日前の事であり、当時敵に制空権を完全に握られた日本軍は対空砲火で反撃するも圧倒的に劣勢な状況で多くの軍用艦が轟沈され女川湾は大混乱で海面は血の海と化したと言われている。
それから28年後の昭和48年、女川町の先人である神田用品店の神田義男さん達”戦友親和会”が中心となって私財を投入し浄財を集めながら「女川湾戦没者慰霊碑」を建立したのです。
当時は軍用艦天草、大浜等の元乗員をはじめ遺族の方、その関係者等が大勢全国から集まり盛大な慰霊祭が開催されたそうであります。
以来数十年の歳月が流れ、軍用艦の乗員やその関係者、戦友親和会の方々も多くが高齢、故人となり最近は慰霊祭も細々と開催されてきたのです。
慰霊碑の場所も国道沿いのカーブの傾斜地の位置にあり、慰霊碑も老朽化し周りの地盤も崩れかかっている現況であります。
戦友親和会が事実上運営できなくなってからのここ20年、慰霊碑を清掃、管理し慰霊祭を運営してきたのは立正佼成会女川支部の方々であり、その献身的活動には心から感謝と御礼を申し上げたい。
本年の慰霊碑の清掃は立正佼成会の方々や役場互助会、有志の方々等大勢の方々の力を借りてスムースに行われ、慰霊祭も30人ほどの参列の下、厳粛に行われたので一安心したところです。
その中で色麻町から参列された当時の天草の乗員であり、現在色麻町議会議員を16期務める田中一寿さんの迫力ある生々しい証言に圧倒された。
満86歳の田中さんは現在色麻町でトラック100台を超す運送会社の会長であり、トラックの看板には天草や大浜をはじめとする当時の戦艦の名前が記されているそうです。
田中さんは当時18歳で撃沈された後の記憶がなく気が付いたときはかぼちゃを入れる俵袋にしがみついていたそうで、米軍機は敵の動く物は全て爆撃の対象にしたのでじっと動かずに敵機が去るのを待っていたという。
”この慰霊碑の前に立つと胸が熱くなる、私は生きている限り慰霊祭に参列する”の言葉は奇跡的に生き残った旧軍人の生の声として限りなく重い。
私達現在に生きるものは現在の平和と繁栄が英霊となられた多くの先人の方々の尊い犠牲の上にあることを片時も忘れてはならない。
戦争の恐ろしさ非条理さ悲惨さを後世の方々に正しく伝えることは現在に生きる私達の大事な責務であろう。
そして郷土の先人の方々の平和への熱き思いを継承し後世に伝えることが私達の責任であろう。
昨日は長崎に原爆が投下された日です。
平和の尊さ素晴らしさを噛みしめながら、不戦の誓いを新たにしながら生きて行きましょうか。
郷土の震災からの復興も含めて先の見通せないことが多いが、私の責務は私が今出来ることをしっかりと誠実に実行することしかないとあらためたて思う。
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